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2006年4月22日 (土)

ゾロアスター教と「イラン的イスラーム」
前エントリーの訂正があります

前回のエントリー、「世論と現実の連動」で2ヶ所、
間違いがありましたので訂正致します。

まず、IRIB の名称の最後に「Broadcasting」が抜けていたこと。

そして、現在のイランの最高指導者をハータミー師としていたことです。
正しくは、ハーメネイー師でした。

後者はありえないミスで、謹んでお詫びの上、訂正致します。(しました。)
ハータミー氏は前大統領です。
失礼しました。

それから、実はぼくも「氏」と「師」の使い分けが
どのように行われているのかがよくわかっていないので、
不適切な部分があるかもしれません。
そのあたりはご勘弁下さい。

なお、余談ですが、イラン人男性、
基本的に年配の方は黒か白のターバンをかぶっていることがあるのですが、
(あの帽子をターバンと呼ぶかは疑問です。調べておきます)
黒ターバンはモハンマドの血を引く者であるとされています。
ただし、実際にモハンマドの子孫であるかどうかは別問題で、
箔をつけるために黒ターバンをかぶっていることもあるという話を聞きます。

でも、預言者の子孫を表すターバンには、
何かしらの法規制があってもいいようなものですよね。
ひょっとして、そういう規制があるのかもしれません。
これも、調べておきます。

で、前出のハータミー氏は黒ターバン、
現最高指導者ハーメネイー師は白ターバンです。

イランのイスラームは「12イマーム・シーア派」で、
預言者の死後、彼の血を引くアリーをイマーム(指導者)としたため、
「アリーの党派(シーア・アリー)」と呼ばれるようになり、
それが短くなって「シーア派」となった、
というのはご存知の方も多いかと思います。

このように、シーア派は血統主義の傾向があり、
そのため、ターバンの色分けをするのだと思われます。

さらに、イスラーム化以前からの宗教であるゾロアスター教の影響で、
その傾向がより強くなっているという話も聞きますが、
ゾロアスター教と血統主義のつながりはぼくのなかで消化できておりません…

後述もしますが、現在は、
古代からのゾロアスター教徒(=純粋イラン人)以外の入信はできず、
信者の改宗も認められていないため、
実際に血統主義が取られていますが、
教義にそのようなことがあったかということが確認できておりません。

ゾロアスター教は、拝火教と書かれることもあり、
火を崇拝する宗教という風に解されがちですが、
拝火神殿に祭られる「火」はあくまでもひとつのシンボルであり、
いわゆる自然崇拝の宗教と言って差し支えないと思います。

「土も水も火も汚さない」ために、
鳥葬(遺体をハゲタカなどに食べさせる)を行うことはあまりにも有名です。
なお、現在においては、鳥葬は禁じられているようです。

イスラーム化以前には街角にゾロアスター教の祠(ほこら)があり、
その場所には地下水脈があったと聞きます。
現在は、ほとんどがイラン的イスラームの聖者廟になっているそうです。
偶像崇拝禁止のイスラームで聖者を崇拝するという、
イラン的イスラームは非常に興味深い特質を持っています。

聖者廟がそのようにして作られているわけですから、
必ず安置されている「聖者の棺」も、
ほとんどがイミテーションということになります。
もちろん、実際の聖者の墓もたくさんあります。

ゾロアスター教の開祖はゾロアスターですが、
(ギリシア語で。ペルシア語ではザラスシュトラ)
開祖がわかっている宗教としては世界最古のものであり、
その教義は当然にキリスト教、ユダヤ教などに受け継がれるのですが、
その辺を語り出すと止まらないのでこのくらいにしておきます…
かなり重要なことではあるのですけれども。

しかし、「天国」と「地獄」の概念や、「終末思想」、
「世界の終わりに死者が復活して最後の審判を受ける」などの思想は
ゾロアスター教から始まっているものであることは特筆します。

ただし、ゾロアスター教も、
当時すでにあった自然発生的な宗教思想を
まとめたものであろうという見方が一般的であることも付け加えておきます。

もうひとつ余談を。

Queen のボーカル、フレディ・マーキュリーの両親は
パールシーであったという話を耳にしました。

「パールシー」とは、インドへ渡ったゾロアスター教徒のことで、
ゾロアスター教は血統主義がとられているため、
フレディは純粋にイラン人の血を引いているということです。
本当なのかもわかりませんが、
ぼくにとって、これはちょっとした衝撃でした。


さて、芋づる式に話がそれましたが、もどします。

12イマーム・シーア派の「12イマーム~」というのは、
12代目のイマームまで認知するという意味です。

12代イマーム、マフディ(ペルシア語ではメヘディ)は、
迫害を受け、地下のアーブ・アンバール(→貯水庫)
「お隠れになった」まま姿を消したとされています。(→隠れイマーム)
そして、やがて再び姿を現し、世界を救うとされています。

マフディの名は、「ムハンマド・ムンタザル」としているのも見かけます。
原語表記を確認できていないのですが、
カタカナ表記からやや強引に解釈すると、
「待望されるモハンマド(預言者)」という意味にもとれます。

マフディがお隠れになっているだけだとされているのは、
彼が死んだとなるとモハンマドの血が途絶えてしまうこと、
あれ?! じゃあ、あの黒ターバンの人たちは???(笑)
また、マフディはもちろん、預言者モハンマドも、
あくまでも「神の使徒」、つまり「人間」であるという思想のため、
復活することができなから、という絶妙な調整があるためと思われます。


========


さて、またもや長々と書いてしまいましたが、
新・えせ記者徒然」からは、
宗教のゲーム化」という提案がなされております。

それを受けて、このエントリーで宗教の話を書きました。
黄色い四角で囲まれた部分は、ストレートで少しショッキングですが、
おそらく現実にあったであろうことであり、考えさせられます。

宗教のゲーム化について、積極的に賛成しているわけでもありませんが、
少しでも宗教の話題に触れることで、
世界情勢を深く理解することに努めようと思います。

宗教のゲーム化は、それを目的としています。
ひとまずは、現在の「書きなぐソ陪審」のように、
3者ブログの特徴を薄めたトピックから始めようと思います。

2006年4月15日 (土)

世論と現実の連動

さて、「新・えせ記者徒然」と「書きなぐソ陪審」では、
民主主義とメディア・リテラシーの話題がでております。
ぼくもこの話題に乗りたいことはやまやまなのですが、
ちょっと個人的に忙しいような日々を過ごしておりまして、
なかなか長文を書くことができない状態です。
ですので、とりあえず今回は、非常にタイムリーな話題を
3者ブログ(の、他の2者)での話に少しだけからませつつ、
簡単に述べようと思います。

ですので今回は、同じような話題でありながら、
各エントリーに対する直接のコメントではありません。


◎核開発に関する、イランの動向

ぼくが現在、最も関心を持っている事柄は、
イランの核開発問題です。
もちろん、イランが核兵器を持つのかどうかということも気になりますが、
もっと気になるのは、イラン対他国、
とりわけ、イラン対アメリカの対立です。

なお、この原稿での本題はそっちなんですが、
その前に、イランがどうしてここまで強硬な姿勢をとるのかということを、
みなさんがそれぞれ考察する際の参考となるようなことも書いておきます。


◇イランにおける、核開発の必要性

イランは、
「核開発は平和的利用のためのものである」と主張しています。
たしかに、現段階では、核兵器を所有していないと推測されています。
イラン政府の主張が真実かつ正当であるか、
また、イランが核兵器を開発するかどうかという考察は、ひとまず行わず、
今回は、「平和的核開発(すなわち原発)」が
現在のイランにとっては急がれているという現状を述べます。

イランでは、1979年、
「シャー(王)に死を!」のスローガンの下、イラン革命が成立しました。
直接的な動機は、
石油利権がアメリカなどに流れていったことへの反発と言われています。
当時は東西冷戦構造の真っ只中、
イランと、地理的にも近く親交の深いソ連を抑えることは、
アメリカ側にとっては必須のことであったと思われます。

イラン革命は当初、民族革命としての性格が強いものでした。
しかし、最終的に政権をとったのは、
ご存知ホメイニー師率いる、イスラーム聖職者でした。
ホメイニー体制のもと、イランのスローガンは
「アメリカに死を!」というものに変わりました。

そして翌年1980年、イラクがイランに侵攻します。

この「イ・イ戦争」で、どちらにどの国が加勢したのか
(とくに、アメリカ側、ソ連側という観点で)を考察し出すと
膨大な量の文章になってしまうため、割愛します。

この戦争は8年間続き、
イランは経済的にも大打撃を受けました。
また、戦後のベビーブームの影響もあり、人口は増大しました。

1979年当時の推定人口、3700万人
イ・イ戦争による死者、推定60万人(文民を含む)
1997年当時の推定人口、6750万人
1979-91の人口成長率平均3.5%

(出典)イラン・イスラーム体制とは何か (書肆心水・発行)

2004年7月の人口、イラン政府発表6800万人
物価上昇率 15.8%(02/03年)
失業率 16.2%(02/03年)

(外務省HPより)

戦争で破壊されたインフラの再構築のためにも資金が必要ですが、
急激な人口増加、若年層に比重を置く人口構成では、
充分な資金が集まらない状況です。

そこで、ひとつの方法として、
火力発電に費やしている石油を輸出にまわすことが考えられます。
そして、最も効率のいい発電方法として、原発があります。

軍事開発には、当然に国の総力をあげるであろうとはいえ、
イランの電力事情は、
首都テヘランでさえ停電が日常茶飯事であり、
原発6基をこしらえて、ようやく全土の電力をまかなえるという説もあります。

そのような中では、原発の開発は急務であると思われ、
イラン政府の主張も、
少なくとも一部は切実な理由によるものと思われます。
とにかく原発は作らなきゃ始まらん、と。

イラン政府はこれまで、
核兵器の開発は否定を続けています。
また、IRIB(Islamic Republic of Iran Broadcasting)でも、
↑イラン国営、大本営発表に近いのでその点は留意のこと。
ペルシア語のサイトです。

国連の(?)査察団は、
イランで核兵器開発の兆候を見つけられなかった旨、
繰り返し述べています。


◎メディア・リテラシー、とくに世論誘導について

さて、上記の通り、ぼくは、
イランが原発技術を開発することに関しては、肯定しています。

で、ここからがようやく本題に入るのですが、
ここ数日、イラン、アメリカ両国で興味深い動きがありました。

アメリカでは、イランを核攻撃するという報道があり、
(アメリカ政府はこの内容を明確に否定しているとされています)
イランでは、各紙がこぞって、
「イランが核保有国に仲間入り!」と大騒ぎしたということです。
(後者の情報源は、イラン在住日本人の方のブログですが、
許可をとってないので現段階ではリンクできません)


後者の「核」というのが、平和的核利用なのか、
はたまた核兵器のことなのかは確認がとれていませんが、
(もちろん、現段階で「核兵器」と名言するはずはありませんが)
どちらの事例も、今後の展開によっては
その後の世論の動きをある程度方向付ける可能性がありますね。

新・えせ記者徒然」の「メディアと正義」
書きなぐソ陪審」の「ヒーローってなんですか。」から始まる一連のエントリーでも、
メディアによる世論誘導の具体事例について触れられていますが、
この(上記の)例でも、同じような意図がある可能性があります。

アメリカにおいては、たとえば、
「反イラン感情を煽る動き」とか、
「報道させといて、あえて否定する政府の意向」であったり、
(報道の直後には否定も肯定もしなかったという話も勘ぐって)
イランにおいては、同じくたとえば、
「原発開発の次の核兵器開発」の伏線であったり、
深読みしようと思えばいくらでもできそうな話題です。
なお、イランでは今も一定の言論統制があり、
前ハータミー政権ではそれが大幅に緩和されていましたが、
現アフマディーネジャード政権になってから再び強化されたため、
改革派の新聞が次々と発禁処分を受けています。
この点、くれぐれも留意のこと。


株式市場にしろ、外為市場にしろ、
「こうなると世論が予想・期待したら、 実際にそのように現実が動いていく」
なんてのはごく日常的に起こることです。


◎まとめになってないまとめ(お約束)

このエントリーの最後で、
ようやくメディア・リテラシーの話題に触れたわけですが、
もうひとつ、民主主義について。

イラン的民主主義については、
以後のエントリーで独立させて書く予定ですが、
それにつながるであろう、現イラン体制についての説明を少し。

イランは、一定の民主主義体制をとっています。
最終決定権は最高指導者(今はハーメネイー師)が持ってはいますが、
民主的な力によって罷免することも可能な体制になっています。

イランの「宗教派」は、大きく分けて二つあり、
ひとつは、「純粋イスラーム主義」であり、
もうひとつは、「ホメイニー派」です。
そして、現大統領のアフマディーネジャード氏は、
前者に属していると思われます。

ここで注目すべきは、「現イラン体制」というのは、
すなわち「ホメイニー体制」であるということです。
最高指導者がホメイニー師であったからこそ、
現体制は維持しえたという見方があります。

そのため、ホメイニー師の死後、
ホメイニー体制を堅牢なものにするため、
憲法改正が叫ばれているといわれています。
民主性が損なわれることを、ぼくは危惧しています。

そしてアメリカは、アフマディーネジャード大統領を、
「ヒトラーの再来」と見ているという報道も目にします。
この見解にヨーロッパ、
とくにドイツがどのように反応するかも非常に興味深いですが、
まずもって、
「ホメイニー体制」と「純粋イスラーム主義」を明らかに混同している
アメリカの動向も気になります。


と、またもや結論のでない投稿で、
とりあえずの幕引きといたします。

お目汚し御免。

2006年3月30日 (木)

民主主義について

ぼくの前回のエントリー「死刑制度について(議論休止宣言)」へ、
「新・えせ記者徒然」「刑法議論終結へ」に続き、
「書きなぐソ陪審」からも
停戦合意①    」という返答を頂きましたので、
ひとまず死刑制度存廃論は休止とさせていただきます。

さて、ぼくたちの3者ブログにおけるニューカマーな話題として、
「新・えせ記者徒然」「社会システム」からは、
『民主主義』が提案されていると思われます。

なお、「書きなぐソ陪審」では、新たに
「民主主義の考察とホリエモンの功罪」というエントリーがなされていますが、
それを読む前にこのエントリーを書き始めておりますので、
とりあえず言及はしないことにします。

◎民主主義についての、ぼくの立場

ぼくは今のところ、
民主主義についてあまり深く考察したことはないので、
現時点で表明できる考え(≒個人的な結論)というものはないのですが、
討論の導入部として、ぼく自身の、
民主主義についての認識を書くことにします。

もちろん、問題提起を含みますけれど。
どの話題でもそうなんですが、
その話題について語る包括的な視点を保つために、
どうしても、
ほかのことまにで言及することが避けられないのですが、
そこは最低限に抑えるよう努力いたします。

◎民主主義の成立と、期待される態様

まず、国家、もしくはそれに準ずる集団の
原初的な形態は、今で言う独裁政権であると考えます。
(この時点で『政権』という言葉を使うのは語弊がありますが)

特定の地域を支配する王(君主)が、
民衆を統制するために、法を制定する。
この時点で民衆に与えられる権利は限りがある。

例えば法文、もしくは慣習的に、
「人民は~することができる」とか
「人民は~されることはない」などとあっても、
それ以外は何をされても異論を唱えられない状態。

時代が下って興る、「社会契約論」なる思想では、

人間は生まれながらにして侵害されない存在であるが、
(→「基本的人権」の概念の発達)
国家(社会)と契約を結び、
一定の、権利の制約を受け入れる。

というものになりますね。

こうなると、条文は基本的に
「人民は~されることはない」という論調に傾くと思います。
「~することができる」という条文も実際にありますが、
それは、
「人権侵害のないよう、国家に対して能動的に要請する」
というものです。

主権(※1)がどこにあるかは、
実際には憲法、またはそれに準ずる法に明記されるのですが、
たとえば日本国憲法では、

①国家からの自由
②国家への自由
③国家による自由

という三つの理念があるとされています。(※2)

(※1)主権
   ここでは、
   国家運営を実質的に担う組織(たとえば政府)
   に対しての権利、という意味で使っています。

(※2)①国家による人権侵害を受けないこと
    ②具体的には、自由な参政権など。
    ③国民がまともな生活を送れるよう、
     国家が国民の生活に介入すること。
     たとえば、生活保護。

小兄さんは、「社会システム」において
民主主義を一定の立場で疑問視していますが、
これは、②に着目してのことだと思われます。
現代において最も問題となるのは、
たしかに、この、②についてだと思います。

「直接民主制」や「間接民主制」、はたまた
「議会制(一院制、二院制など)」や「大統領制」などは、
やはり、この②をどう捉えるかという違いだと思います。

と、ひとまずは問題提起に留めておいて、

◎宗教観の相違に連動する国家形成の相違

「新・えせ記者徒然」では、

僕は日本の民主主義って、
「アメリカ的民主主義を日本流に解釈しているだけ」
と思っています。
つまり、
「一神教に基づいて考案された民主主義は、多神教の国・日本にはなじまない」
と。

「社会システム」

という考察がなされています。

ぼく自身、現代の状況を考えると、
民主主義が一神教に基づいているとは思えないのですが、
しかし、
宗教観を勘案しての考察は非常に有効であると考えますので、
ぼくも、同様の方法による考察を試みたいと思います。

ただし、
「一神教思想が加味された民主主義」、
または「アメリカ的民主主義」という表現をするのは、
非常に妥当であると考えます。

と、前置きよりも本文の方が短くなりそうですが、
ぼくは以下のように思います。

◎神と国家元首

宗教観を国家形態の問題にあてはめて解釈するときには、
「神」と「国家元首」の関係に注目すべきでしょうか。
自分でもこじつけの感が拭えない発想ですが、
こういう考え方もできますかね。

もともと性質の違うものではありますが、
例えばキリスト教主流派の場合、
「イエスは神であり、人である」という思想から、
個人が究極的に権力を掌握しうる前提があるととらえることで
アメリカの大統領制を見る手法も考えられます。

日本では、最高神は事実上存在せず、また、
八百万の神の思想から、
「神々は独自のコミュニティを作って『人間的』に生活している」
と言うこともでき、キリスト教的な発想にはならず、
横並びの発想のもとになっているのかもしれません。

話が広がりそうな上にまとまりそうにないので、
いったんはこの辺で…
尻切れとんぼ。

2006年2月22日 (水)

煙草について(3)

(さらに続きです)


◎一転して、俗なお話を

まあ、非喫煙者にとって、
「煙草の煙は実際にうっとうしい」ということも当然理解できます。

で、分煙の話に戻るわけなのですが。

煙草とは本来、
「日常」から隔離されるべきものであると考えます。
それは前回に書いた理由によるものなのですが、
現代の分煙について考える際には、
そんな考え方は意味をなしません。
単純に、けむいものをどう隔離するかという点で述べます。
また、煙草を純粋に嗜好品ととらえた見方をしてみます。

前回も書きましたが、煙草は毒薬です。
そして、煙は分散しますから、やはり解決策は、
「嫌いな人の近くで吸わないこと」ですね。

はっきし言って、もう、これしかありません。
喫煙者が嫌煙ブームを嫌悪するのは、
言い方が悪いのが主な理由だと。
嫌いだからやめろ、というのは理由になりませんし、
他人の嗜好に口出しするなんて論外です。

しかし、喫煙者のモラルの低さが
嫌煙家に根拠を与えていることも見過ごせません。
所かまわず煙草を吸う、吸殻をポイ捨てする、
危険な歩き煙草をする、などという現実に対しては、
喫煙者のぼくも憤慨するところであります。

投げ捨てられた吸殻さえなければ、
嫌煙ブームがここまで肥大化することはなかったと思います。
ここは、喫煙者の自制力に問題があります。

喫煙は今や、
個人的に快感を得るマスターベーションであると考えます。
禁忌のもうひとつの側面ですね。
そう、投げ捨てられた吸殻は、すなわち、ティッシュです。
人前での喫煙は、衆人環視の自慰行為です。
最近は、歩き煙草をする若い女性が増えましたが、
彼女たちは全員オナニーをしながら歩いているのです。
全員です、全員。
だからもっともっと吸ってください。
なんならほんとにすっきりパンツを脱いでオナニーしながら…









いや、失敬。
俗に流れすぎました。

まあ要するに、喫煙者も遠慮しろよってことですかね。
公共広告機構のCMでもありますが、
ぼくは、嫌だけどまあいいよって言うのをわかっていながら
「吸ってもいい?」なんて聞くような野暮なことはしません。

初っ端にも書きましたが、ぼくは喫煙者です。
しかし、喫煙権なるものを主張する気はありまっせん。


◎喫煙はかっこいい?

さて、煙草を吸い始める理由として、嫌煙家からは
「かっこいいから」というのが必ず挙げられます。
その論理で、テレビなどの喫煙シーンが問題視されるのですが、
ぼくは、喫煙がかっこいいなどと思ったことは一度もありません。
これは、昔も今も同様です。

「えせ記者徒然」(の、当該エントリー↓)
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_e02e.html

にもあるように、テレビなどの影響は皆無ではありませんが、
身近な人が「うまそうに」吸っているのを見る、
というのがもっとも大きな理由だと思います。


「年老いた学者が本を読みながら吸う」
「大工さんが角材に腰掛けて吸う」
「おじいさんが縁側で吸う」


これらはみんな、「うまそうである」のです。
まあ、「うまそう」と「かっこいい」を区別するのは
それこそ詭弁といえますが、
注意してみると、ほとんどの情景は、

p 「道を極めた人が煙草を吸う様子」

であると言える、と思います。
もっと広く言えば、「大人が~」となるのですが、
これは、若年者が吸い始める理由とも重なります。
ぼく自身にとっても、それは同様でした。

また、他のイメージとして、こういうのもありますね。


「大工さんが、耳に挟んでいた煙草を大事そうに吸う」
「死刑囚の最後の望みは、一本の煙草である」
「戦場で死に瀕した人の最後の望みは、一本の煙草である」


下の二つに関しては、前回の「境界」の話にからめて、
民俗学的な観点から考察することができるかもしれません。
上記の「道を極めた人が~」というのも、
ある種の「境界」を暗示していると言えなくもありません。

まあそれはさておき、後者のイメージは、
「とっておきのもの」という風にまとめることができます。


もう一回だけ続けるので、三度切ります。

煙草について(2)

(前回の続きです)


◎喫煙者・非喫煙者の心理と分煙策

たとえば、居酒屋や喫茶店に行った時を思い出してください。
隣のテーブルの人が、煙草を取り出して火をつけるまでの間に、
ちらっとこちらのテーブルに目をやることがあるのにお気づきでしょうか。

非喫煙者の方はなかなか気付きにくいかもしれませんが、
これは、隣のテーブルに灰皿や煙草があるかを確認しているのです。
つまり、隣は喫煙者かどうかを。

煙草を吸ってもいい場所といけない場所があることは周知の通りです。
そして、いい場所でも「いけない場合」があることも同様です。
その場合は喫煙者が我慢することになるのですが、
上記の例(居酒屋など)では、それでも吸ってしまうことが多いです。
結果、「喫煙者は遠慮」「非喫煙者は我慢」をすることになります。
そんな状況を打開するために生まれたのが、「分煙」だと思います。
いい場所、いけない場所をはっきりと線引きしましょうよっと。

うん、とっても合理的な方法ですね!


◎分煙の境界、神と人との境界、
 そして、煙草撲滅運動が壊そうとしているもの

話はそう簡単ではありません…
境界をどこにするかが問題となるのですね…

この「境界」に関連して、少し本題を外れるやもしれぬ話を。

前節の話の流れを非喫煙者の立場で結論付ければ、
「じゃあ最初から煙草なんて吸うな!」と、なるわけですが、
煙草は、本当に撲滅せらるべき存在なのでしょうか。


煙草の歴史は、上記、

「書きなぐソ陪審」(当該エントリー↓)
http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50072196.html

でも、医薬品としての歴史が紹介されていますが、

「たばこと塩の博物館」

↑ここにはもっと詳しい説明がなされています。
コロンブスが「発見」する以前の、宗教的な使われ方です。

古代には、地域・文化を問わず、
災害、不吉なことは神の領域であると考えられていました。
そこには当然、「病」も含まれます。
病気治療は呪術師の仕事であったことからもうかがえます。

煙草には、酩酊作用があります。
熱心な祈祷でトランス状態を作り、自己暗示をかけ、神と交流する。
煙草の酩酊作用は、この行為を補佐します。

もちろん酒にも酩酊作用があり、
日本でも「御神酒」というものがあります。
これは、同様の理由によるものと考えられます。

(余談ですが、イスラームにおいては、
 「この酩酊作用が神を忘れさせる」という理由により、
 酒類は禁じられています)

また、煙草は「火」です。
自然界に存在する「火」は、火山をはじめ、
落雷、または風による摩擦から起こる山火事などであり、
人間の能力を超えた存在です。
オリンピックの「聖火」も、
火の神秘性に基づいていると考えられます。

そして、闇を照らす「太陽の分身」でもあります。

さらに、煙。
古来より、神は天上にいると考えられていました。
だから、立ち上る煙は、
人間と神との架け橋であると考えられました。

また、どこの話だったかは失念してしまいましたが、
人間の魂の象徴は吐息であると考え、魂を形にするという点で、
煙草の煙を宗教行事に使う地域があると聞きます。
マンガなどでよく、口から魂が抜ける表現がありますが、
まったくそのまんまですね。

このように、
「受け継がれた深遠な文化としての煙草」までも、
嫌煙家はなくそうとするのでしょうか。

まあまあ、
現代の嫌煙ブームにそこまでの配慮を求めるつもりもありませんが、
せめて、ちょっとはしょって
「文化としての煙草」という認識は持って欲しいと思います。
また、上記「たばこと塩の博物館」でも紹介されている、
煙草と共に花開いた文化を否定することでもあります。

なお、JTを「毒薬の売人」とこき下ろす意見もありますが、
JTは、毒薬の売人です。
煙草が毒薬であるからこそ、
現代に受け継がれてるんですからね。

同様の論者は煙草を、麻薬と同列にみなしますが、
酩酊作用の強弱を考えれば、そんなものは詭弁です。
それならむしろ、酒をどうにかしなきゃなんない。


現代の中東では、ひとつの煙草に関する儀礼として、
こういうものがあります。

1.まず、相手に勧めてから吸う。
2.火をつけてもらうときは、
  相手の手を両手で包みこむ。
3.火がついたら、
  指先でトントンと軽く相手の手をたたく。

「1.」の段階で、
嫌煙家からはマッハパンチが飛んできそうですが、
これは重要な社交辞令です。
つまり、人と人との境界に関する儀礼です。


「境界」については、以前の「男女不平等論」に関連して、
女人禁制の話をからめて、後日書きたいと思います。
この「境界」という概念は、
ぼくが強く興味を持っているもののひとつです。
そこでは当然、これから我々3人が述べるであろう、
「冠婚葬祭」における境界の話もからんできます。


さらに続くので、もう一回切ります。

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