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2006年4月15日 (土)

世論と現実の連動

さて、「新・えせ記者徒然」と「書きなぐソ陪審」では、
民主主義とメディア・リテラシーの話題がでております。
ぼくもこの話題に乗りたいことはやまやまなのですが、
ちょっと個人的に忙しいような日々を過ごしておりまして、
なかなか長文を書くことができない状態です。
ですので、とりあえず今回は、非常にタイムリーな話題を
3者ブログ(の、他の2者)での話に少しだけからませつつ、
簡単に述べようと思います。

ですので今回は、同じような話題でありながら、
各エントリーに対する直接のコメントではありません。


◎核開発に関する、イランの動向

ぼくが現在、最も関心を持っている事柄は、
イランの核開発問題です。
もちろん、イランが核兵器を持つのかどうかということも気になりますが、
もっと気になるのは、イラン対他国、
とりわけ、イラン対アメリカの対立です。

なお、この原稿での本題はそっちなんですが、
その前に、イランがどうしてここまで強硬な姿勢をとるのかということを、
みなさんがそれぞれ考察する際の参考となるようなことも書いておきます。


◇イランにおける、核開発の必要性

イランは、
「核開発は平和的利用のためのものである」と主張しています。
たしかに、現段階では、核兵器を所有していないと推測されています。
イラン政府の主張が真実かつ正当であるか、
また、イランが核兵器を開発するかどうかという考察は、ひとまず行わず、
今回は、「平和的核開発(すなわち原発)」が
現在のイランにとっては急がれているという現状を述べます。

イランでは、1979年、
「シャー(王)に死を!」のスローガンの下、イラン革命が成立しました。
直接的な動機は、
石油利権がアメリカなどに流れていったことへの反発と言われています。
当時は東西冷戦構造の真っ只中、
イランと、地理的にも近く親交の深いソ連を抑えることは、
アメリカ側にとっては必須のことであったと思われます。

イラン革命は当初、民族革命としての性格が強いものでした。
しかし、最終的に政権をとったのは、
ご存知ホメイニー師率いる、イスラーム聖職者でした。
ホメイニー体制のもと、イランのスローガンは
「アメリカに死を!」というものに変わりました。

そして翌年1980年、イラクがイランに侵攻します。

この「イ・イ戦争」で、どちらにどの国が加勢したのか
(とくに、アメリカ側、ソ連側という観点で)を考察し出すと
膨大な量の文章になってしまうため、割愛します。

この戦争は8年間続き、
イランは経済的にも大打撃を受けました。
また、戦後のベビーブームの影響もあり、人口は増大しました。

1979年当時の推定人口、3700万人
イ・イ戦争による死者、推定60万人(文民を含む)
1997年当時の推定人口、6750万人
1979-91の人口成長率平均3.5%

(出典)イラン・イスラーム体制とは何か (書肆心水・発行)

2004年7月の人口、イラン政府発表6800万人
物価上昇率 15.8%(02/03年)
失業率 16.2%(02/03年)

(外務省HPより)

戦争で破壊されたインフラの再構築のためにも資金が必要ですが、
急激な人口増加、若年層に比重を置く人口構成では、
充分な資金が集まらない状況です。

そこで、ひとつの方法として、
火力発電に費やしている石油を輸出にまわすことが考えられます。
そして、最も効率のいい発電方法として、原発があります。

軍事開発には、当然に国の総力をあげるであろうとはいえ、
イランの電力事情は、
首都テヘランでさえ停電が日常茶飯事であり、
原発6基をこしらえて、ようやく全土の電力をまかなえるという説もあります。

そのような中では、原発の開発は急務であると思われ、
イラン政府の主張も、
少なくとも一部は切実な理由によるものと思われます。
とにかく原発は作らなきゃ始まらん、と。

イラン政府はこれまで、
核兵器の開発は否定を続けています。
また、IRIB(Islamic Republic of Iran Broadcasting)でも、
↑イラン国営、大本営発表に近いのでその点は留意のこと。
ペルシア語のサイトです。

国連の(?)査察団は、
イランで核兵器開発の兆候を見つけられなかった旨、
繰り返し述べています。


◎メディア・リテラシー、とくに世論誘導について

さて、上記の通り、ぼくは、
イランが原発技術を開発することに関しては、肯定しています。

で、ここからがようやく本題に入るのですが、
ここ数日、イラン、アメリカ両国で興味深い動きがありました。

アメリカでは、イランを核攻撃するという報道があり、
(アメリカ政府はこの内容を明確に否定しているとされています)
イランでは、各紙がこぞって、
「イランが核保有国に仲間入り!」と大騒ぎしたということです。
(後者の情報源は、イラン在住日本人の方のブログですが、
許可をとってないので現段階ではリンクできません)


後者の「核」というのが、平和的核利用なのか、
はたまた核兵器のことなのかは確認がとれていませんが、
(もちろん、現段階で「核兵器」と名言するはずはありませんが)
どちらの事例も、今後の展開によっては
その後の世論の動きをある程度方向付ける可能性がありますね。

新・えせ記者徒然」の「メディアと正義」
書きなぐソ陪審」の「ヒーローってなんですか。」から始まる一連のエントリーでも、
メディアによる世論誘導の具体事例について触れられていますが、
この(上記の)例でも、同じような意図がある可能性があります。

アメリカにおいては、たとえば、
「反イラン感情を煽る動き」とか、
「報道させといて、あえて否定する政府の意向」であったり、
(報道の直後には否定も肯定もしなかったという話も勘ぐって)
イランにおいては、同じくたとえば、
「原発開発の次の核兵器開発」の伏線であったり、
深読みしようと思えばいくらでもできそうな話題です。
なお、イランでは今も一定の言論統制があり、
前ハータミー政権ではそれが大幅に緩和されていましたが、
現アフマディーネジャード政権になってから再び強化されたため、
改革派の新聞が次々と発禁処分を受けています。
この点、くれぐれも留意のこと。


株式市場にしろ、外為市場にしろ、
「こうなると世論が予想・期待したら、 実際にそのように現実が動いていく」
なんてのはごく日常的に起こることです。


◎まとめになってないまとめ(お約束)

このエントリーの最後で、
ようやくメディア・リテラシーの話題に触れたわけですが、
もうひとつ、民主主義について。

イラン的民主主義については、
以後のエントリーで独立させて書く予定ですが、
それにつながるであろう、現イラン体制についての説明を少し。

イランは、一定の民主主義体制をとっています。
最終決定権は最高指導者(今はハーメネイー師)が持ってはいますが、
民主的な力によって罷免することも可能な体制になっています。

イランの「宗教派」は、大きく分けて二つあり、
ひとつは、「純粋イスラーム主義」であり、
もうひとつは、「ホメイニー派」です。
そして、現大統領のアフマディーネジャード氏は、
前者に属していると思われます。

ここで注目すべきは、「現イラン体制」というのは、
すなわち「ホメイニー体制」であるということです。
最高指導者がホメイニー師であったからこそ、
現体制は維持しえたという見方があります。

そのため、ホメイニー師の死後、
ホメイニー体制を堅牢なものにするため、
憲法改正が叫ばれているといわれています。
民主性が損なわれることを、ぼくは危惧しています。

そしてアメリカは、アフマディーネジャード大統領を、
「ヒトラーの再来」と見ているという報道も目にします。
この見解にヨーロッパ、
とくにドイツがどのように反応するかも非常に興味深いですが、
まずもって、
「ホメイニー体制」と「純粋イスラーム主義」を明らかに混同している
アメリカの動向も気になります。


と、またもや結論のでない投稿で、
とりあえずの幕引きといたします。

お目汚し御免。

2006年2月22日 (水)

煙草について(3)

(さらに続きです)


◎一転して、俗なお話を

まあ、非喫煙者にとって、
「煙草の煙は実際にうっとうしい」ということも当然理解できます。

で、分煙の話に戻るわけなのですが。

煙草とは本来、
「日常」から隔離されるべきものであると考えます。
それは前回に書いた理由によるものなのですが、
現代の分煙について考える際には、
そんな考え方は意味をなしません。
単純に、けむいものをどう隔離するかという点で述べます。
また、煙草を純粋に嗜好品ととらえた見方をしてみます。

前回も書きましたが、煙草は毒薬です。
そして、煙は分散しますから、やはり解決策は、
「嫌いな人の近くで吸わないこと」ですね。

はっきし言って、もう、これしかありません。
喫煙者が嫌煙ブームを嫌悪するのは、
言い方が悪いのが主な理由だと。
嫌いだからやめろ、というのは理由になりませんし、
他人の嗜好に口出しするなんて論外です。

しかし、喫煙者のモラルの低さが
嫌煙家に根拠を与えていることも見過ごせません。
所かまわず煙草を吸う、吸殻をポイ捨てする、
危険な歩き煙草をする、などという現実に対しては、
喫煙者のぼくも憤慨するところであります。

投げ捨てられた吸殻さえなければ、
嫌煙ブームがここまで肥大化することはなかったと思います。
ここは、喫煙者の自制力に問題があります。

喫煙は今や、
個人的に快感を得るマスターベーションであると考えます。
禁忌のもうひとつの側面ですね。
そう、投げ捨てられた吸殻は、すなわち、ティッシュです。
人前での喫煙は、衆人環視の自慰行為です。
最近は、歩き煙草をする若い女性が増えましたが、
彼女たちは全員オナニーをしながら歩いているのです。
全員です、全員。
だからもっともっと吸ってください。
なんならほんとにすっきりパンツを脱いでオナニーしながら…









いや、失敬。
俗に流れすぎました。

まあ要するに、喫煙者も遠慮しろよってことですかね。
公共広告機構のCMでもありますが、
ぼくは、嫌だけどまあいいよって言うのをわかっていながら
「吸ってもいい?」なんて聞くような野暮なことはしません。

初っ端にも書きましたが、ぼくは喫煙者です。
しかし、喫煙権なるものを主張する気はありまっせん。


◎喫煙はかっこいい?

さて、煙草を吸い始める理由として、嫌煙家からは
「かっこいいから」というのが必ず挙げられます。
その論理で、テレビなどの喫煙シーンが問題視されるのですが、
ぼくは、喫煙がかっこいいなどと思ったことは一度もありません。
これは、昔も今も同様です。

「えせ記者徒然」(の、当該エントリー↓)
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_e02e.html

にもあるように、テレビなどの影響は皆無ではありませんが、
身近な人が「うまそうに」吸っているのを見る、
というのがもっとも大きな理由だと思います。


「年老いた学者が本を読みながら吸う」
「大工さんが角材に腰掛けて吸う」
「おじいさんが縁側で吸う」


これらはみんな、「うまそうである」のです。
まあ、「うまそう」と「かっこいい」を区別するのは
それこそ詭弁といえますが、
注意してみると、ほとんどの情景は、

p 「道を極めた人が煙草を吸う様子」

であると言える、と思います。
もっと広く言えば、「大人が~」となるのですが、
これは、若年者が吸い始める理由とも重なります。
ぼく自身にとっても、それは同様でした。

また、他のイメージとして、こういうのもありますね。


「大工さんが、耳に挟んでいた煙草を大事そうに吸う」
「死刑囚の最後の望みは、一本の煙草である」
「戦場で死に瀕した人の最後の望みは、一本の煙草である」


下の二つに関しては、前回の「境界」の話にからめて、
民俗学的な観点から考察することができるかもしれません。
上記の「道を極めた人が~」というのも、
ある種の「境界」を暗示していると言えなくもありません。

まあそれはさておき、後者のイメージは、
「とっておきのもの」という風にまとめることができます。


もう一回だけ続けるので、三度切ります。

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