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2006年3月27日 (月)

死刑制度について(議論休止宣言)

さて、しばらくの間、
小兄 from「新・えせ記者徒然」

Molly from「書きなぐソ陪審」、そしてわたくし霧鈴は、
「死刑制度の是非」をテーマに議論を続けてきたわけですが、
すでに多くの方がお気づきかと思われますように、
この議論は当初意図していた論点とは大きく外れております。

そのため、「新・えせ記者徒然」「刑法議論終結へ」からも提案がありましたように、
いったんこの議論は休止したい所存であります。

関係ありませんが、いつのまにか
ブログ名が微妙にマイナーチェンジしてますね。


まったくもって何の「結論」も、
つまり、ぼくたち3名の総意と言いますか、
「3者ブログとしての結論」は出ておりませんが、
もともと、
なにかしらの結論を出そうという意図もありませんし、
たったの3人で出した結論の上にあぐらをかくなんぞは言うまでもなく。

従って、上記「新・えせ記者徒然」「刑法議論終結へ」では
ぼく(霧鈴)を裁判長に見たて、
結論の採択をとるように要請しているわけですが、
ぼくはあくまでも、「議論休止宣言」をするにとどめます。

そして、休止に当たって、
それぞれの論点の「ずれ」をぼくなりにまとめてみたいと思います。
個別事例に対する言及はしないスタンスですが、
それでも万が一、ご本人の不本意な解釈があればご指摘下さい。


◎意見の相違

まず、小兄さんの意見ですが、「刑法議論終結へ」のなかで、
Mollyさんと小兄さんの意見の相違点として、

僕ともりーは刑法議論を行っておりました。
もりーは「感情を優先すべき。罪を確定するには条文のみで構わない」
僕は「罪を確定するには様々な論証が必要。罪が確定した後に感情を勘案する」
というスタンスの違いを、あれやこれやの解釈、学説を用いて論じてきました。

という端的な表現をされています。
しかしこの理解は、重大な落とし穴があると思います。

小兄さんの言葉で「罪を確定する」というのはすなわち、

「被告を、刑法に規定された犯罪を犯した、
 責任ある加害者として認定する行為」

のことであり、その時点から
「(その罪に対応する)刑罰を確定する」までの流れの中で
「感情を勘案する」ということになります。

ぼくも、この流れは現行制度上正当であると考えています。

しかし、Mollyさんの一連のエントリーでは、
ぼくもざっと読み返してみましたが、
小兄さんの言葉で言うところの「罪を確定する」段階への言及はなく、
すべて、「刑罰を確定する」場面での話となっているようです。

つまりMollyさんは、
罪と罰の確定をいずれも司法機関が担っているという現状を批判し、
被害者の精神的救済の観点から、
「刑罰の確定」は被害者にさせようというものであると思います。

裁判員制度の導入についても、より被害者に近い立場から
「刑罰を確定」しようとする流れであるという意見ですね。

このことについても、ぼくは一理ある提示だと思います。
つまり今後、議論の余地は大いにあると思います。

ぼくが感じるに、小兄さんとMollyさんの意見の相違は、
「罪の確定」「刑罰の確定」の2つの段階のうち、
どちらについて述べているのかが曖昧であった結果ではないかと思います。
Mollyさんのアナーキー論も、
「細かい突っ込みに煽られて暴言を吐いた」というのが実情ではないかと…

なお、「新・えせ記者徒然」「刑法議論終結へ」では、
Mollyさんの提示した「刑事罰メニュー制度」が
刑法議論の火蓋を切って落としたとされています。

Mollyさんの「刑事罰メニュー制度」は、具体的には
「書きなぐソ陪審」の、
「死刑制度⑧」「死刑制度⑨」「死刑制度⑩」にありますが、
その導入部となる「死刑制度⑧」は、
わたくし霧鈴の、
「死刑制度について(3)」への反論となっています。

さて、
ぼくが「死刑制度について」と題して行った一連のエントリーでは、
「酔っ払って書く」でも述べましたように、
(あまりこのエントリーにはリンクしたくないんですが…)

「日本に死刑制度があるのは、刑法に死刑が規定されているからだ。
 では、なぜ、刑法には死刑が規定されているのだろうか」

というスタンスを礎に述べています。
その議論の前提として、ぼくは「死刑制度について」において
「罪と罰の数値化」を試みました。

この「罪刑数値化の手法」が
「刑法議論」への火種となったかもしれないと考えていますので、
少し補足します。


まずもって、おそらくこの時点ですでに
「罪の確定」「刑罰の確定」という2段階についての認識が
ぼくたち「3社ブログ」運営者の間で一致していなかった可能性があります。

ぼくも、Mollyさんと同じく、
「罪の確定」に関する議論は意図していなかったということです。
「刑法議論」ではなく、あくまでも「死刑制度の是非」という論点から、
そのようなスタンスを採りました。

そのため、「すでに罪が確定した状態」から話を始めてしまい、
小兄さんの、「罪が確定しなければ刑罰については語れない」
という感覚に適さなかったのではないかと思います。

ぼくが当初、意図していた議論の流れは、まず、

「死刑という刑罰は、選択肢の一つとして肯定する」

次に、

「刑法に、死刑が規定されている犯罪について、
 果たして死刑適用が妥当であるかを検討する」

というものでした。
その流れでいったん提示したのが、

無限の可能性の中から、適宜の限界を設定するために法は制定される
「死刑制度について(3)」

という、Mollyさんが受け入れられなかったぼくの意見です。
「書きなぐソ陪審」「死刑制度⑧」を参照のこと)

ぼくが、初っ端から「死刑制度

」という言葉を使ってしまったし、
実際に刑法の条文を援用して反論したりしていたので、
余計に誤解を大きくしてしまったのだろうと思います。
この点は、ぼく自身の中でもかなり混乱がありました。

しかしぼくは根本的に、
「刑法の枠組」を超えて議論していたつもりでした。

「では、なぜ、刑法には死刑が規定されているのだろうか」

というのがそれです。
刑法が存在する以上、
「刑罰の確定」に感情的な部分を含めてはならないはずだが、
刑法に刑罰が規定される時点で、
すでになんらかの主観が入っているのではないだろうか、
ということです。

ぼくは、この時点ですでに、

「個別事例(罪)について、刑法抜きに、妥当な刑罰を考察していく」

という無茶な議論を吹っかけていたわけで、
論壇を荒らすのは無理もないかと…

今思えば、これぞまさしく「アナーキー論」ですね。
すんません。


◎休止宣言

と、かなり長文を書きましたが、
以後、「3者ブログ」を継続させるために、
この一連の議論の流れを分析し、反省材料とし、
ひとまず休止、次の話題へいきたいと思います。

冒頭にも書きましたとおり、
それぞれの個別具体的な意見の相違に関する議論は、
反省会を終え、持論を熟成させた後、
再びこの論壇に戻って行いたいと思います。


死刑制度存廃議論、休止!



2006年3月22日 (水)

「えせ記者徒然」への回答

さてさて。

「えせ記者徒然」「書きなぐソ陪審」での議論にぼくは、

微妙に明らかに乗り遅れてしまってるような気がしますけれども、

とりあえず「えせ記者徒然」の「刑法の解釈」で質問が出されていますし、

ひとまずその確認は有益であると思いますので、

とり急ぎお答えいたします。

甲が乙から盗んだ拳銃で丙を射殺した。

当時、甲は麻薬を使用し錯乱状態にあった。述べよ。

すんません、失礼ながら

この設問には プッ と吹き出してしまいました…

昔のダウンタウンやあらへんねんから…と。(いや、皮肉じゃないっす)

しかし、「書きなぐソ陪審」にも指摘があるように、

>Aが持っている拳銃をBが盗んでCを射殺した。
>いかなる犯罪が成立するか。

の延長と捕らえて 「いかなる刑法犯罪が成立するか。を述べよ」
でよろしいのでしょうか?

ということであるのは容易に想像できますので、

ぼくもこの線でお答えします。

不適切な設問をさらりと流したことで

MOLLYの半分は「優しさ」でできてます。

の一文がきらりと輝いて見えました。

とりあえず超特急の返答です。

答えは、

ぼくは、死刑制度の存廃に関して、

「日本に死刑制度があるのは、刑法に死刑が規定されているからだ。

 では、なぜ、刑法には死刑が規定されているのだろうか」

という論点で(これまでのところは)終始一貫して述べていますので、

「刑法に関する質問は論点がずれている」、というものになります。

法の枠組(?)としては、

1 基本的人権  ↓↓↓

2 憲法      ↓↓↓

3 刑法      ↓↓↓

という順にその範囲が狭まっていくわけで、(大雑把ですが)

ぼくは、少なくとも 「2 と 3 の間のライン」以上の範囲で述べています。

小兄さんのように、「刑法の存在」を前提としてしまうと、

「2 と 3 の間のライン」以下の話になってしまい、

「死刑制度の存廃を論じる」、

つまり、「刑法を論じる」ことはできないと考えます。

とりあえずそのことを踏まえていただいた上で、

あくまでも「刑法の枠内の話」として、

小兄さんの設問にお答えします。

まあ、ぼくが議論に乗り遅れてるせいで

論点はすでに移ってしまっていることも認識していますので、素直にお答えします。

甲が乙から盗んだ拳銃で丙を射殺した。当時、甲は麻薬を使用し錯乱状態にあった。述べよ。

ぼくは刑法を専門的に学んだわけではないのですが、

考え方を知りたい、ということなので臆せず述べます。

まず、事件における事実確認が必要ですが、

今回は、設問における事実、すなわち、

「甲は乙から拳銃を盗んだ」

「甲はその拳銃で丙を射殺した」

「当時、甲は麻薬を使用し錯乱状態にあった」

という3点はすでに充分な証拠があり、争点とはならないものとします。

法律の問題においてはそんなこと当たり前かと思われますが、

「ちょっとだけひねっている」という小兄さんの言葉を警戒して。

それから、「誰の罪を述べるのか」が明記されてないことも地雷と思えなくもないので、

それぞれについて述べます。

また、「えせ記者徒然」の「死刑。その6」には

量刑は「解」ではありません。

とありますが、量刑を考慮する範囲にもあえて踏み込んでいます。

まず、甲の、「拳銃を盗んだ行為」に関して

   ○その行為は、「窃盗であったか」、

   ○つまり、不当な行為であったかどうか。

   ○始めから丙を射殺する目的で得たかどうか

    (「使用窃盗」に関してはわからないので、あえて触れません)

甲の、「麻薬を使用して錯乱状態で丙を射殺した行為」に関して

   ○その錯乱状態において、責任能力が認められるか

   ○正当防衛にはあたらないか

   ○殺意があったかどうか、また、情状酌量の余地はあるか

といったところでしょうか。漏れはあると思いますけれど。

「拳銃を所持していた乙」、「麻薬を打った売人」、「丙に関して」

は、おそらく問われていないと思われますので述べません。

三人の意見の食い違う点が明らかになったら教えてくださいまし。

よろしくお願いします。

2006年3月13日 (月)

死刑制度について(3)


前回からの続きです。
前回のエントリーをお読みいただいてからどうぞ。

死刑制度について(2)


なお、「えせ記者徒然」のエントリーを読むと、
ぼくは、「罪と罰をすり合わせる過程」のことを
「刑事訴訟法の範疇」と規定した上で、
そこには感情を入れるべきであると述べているように感じるのですが、
この認識は正しいでしょうか。

小兄さんの書き方からニュアンス的には伝わるのですが、
「罪と罰をすり合わせる過程」とは即ち「裁判の流れ」であって、
「刑事訴訟法」とは、それこそ淡白に
刑事訴訟の事務手続きを規定したものであると思われます。

それを言うなら、

A.検察が最も重い刑罰を要求する。
B.弁護人が最も軽い刑罰を要求する。(もちろん、無罪も含む)
C.裁判官が、その良心に従い、
  原則として、AとBの間をとる。

という裁判の流れから考えて、
AとBは理系的、Cは文系的ということではないでしょうか。
そして、そのAとBの判断の拠り所となるのが、
刑法であると思います。


ぼくがこの議論に最初に参加するときにも書きましたが、
ぼくは、死刑は無くしてはならないと考えていますが、
実際に適用すべきかどうかは別問題です。

「書きなぐソ陪審」「死刑制度③」では、ぼくの、

>馴染むか馴染まないかではなく、「法に限界を与えないため」です。

という意見に対して、

はかなり無理んがあるのではないでしょうか。(現実的に、物理的にも)
なにより法自体が限界を持って限界を作るために書かれてるんですから。(この辺はまた今度掘り下げて)

という反論がなされていますが、これに関しては、
「大は小を兼ねる」という考え方でさらに反論できます。

無限の可能性の中から、適宜の限界を設定するために法は制定されるのですが、
「限界をもって限界を作る」と規定してしまうならば、
「0」から「∞」まである数字の中から、
例えば「0から100まで」と決めてしまったり、
「0から100までと、150、600という数字を使おう」と決めてしまったりすることであり、
法がカバーできない部分が必ず出てきます。

罪悪の程度は予測できませんから、
もし、法がカバーしていない罪悪が行われたらどうするのか、
ということになります。

前回の「100罪」「100刑」の話の繰り返しになってしまいましたが…


また、ぼくの前回の

ぼくは死刑制度の威嚇作用は問題としていません。
また現実に、なにも死刑に限らず、
罪を犯す者が、
その罪の遂行時にその後の刑罰に思いを巡らせることがあるでしょうか。

というところに対して

に関しては私としては小兄と同意見(つまり抑止効果はある)
につき割愛させていただこうかと思いましたが若干ニュアンスの違いもあることだし書いておきます。
「威嚇」や「抑止」は 「完封」ではないわけです。
私も完封効果があるとはハナッから思っておりません。

という反論もありますが、
ぼくも、抑止効果はあると考えています。
しかし、死刑存廃に関するぼくの論点の上では、
字面そのままに、「問題としていない」ということです。


「えせ記者徒然」の、

刑法というのは全て論理詰めで構成されるもの。
民法のように1つの条文に複数の解釈が成り立つような性質の法律ではありません。
民法が文系であれば刑法は理系。
全て理詰めでいかなければ議論は成り立たないはずなのに、廃止論者は感情に訴える。

に関してですが、刑法には幅を持たせた刑罰が規定されていることと、
裁判官は「その良心に従ひ」判決を下すということから、
完全に論理詰めで構成することは不可能です。
いえ、「論理詰めで」構成することは可能ですが、
「数学的」に、たった一つの答えを導くことは絶対に不可能です。

しかしその曖昧さは、あくまでも裁判制度に不備があるからであって、
たとえば、
「論理詰めで死刑を導けないのなら廃止すべき」という論法は、
ぼくの観点、つまり、
「死刑は、可能性として存続する。
 しかし、論理詰めで死刑を導けないなら適用はしない」
というぼくの観点とはまったく逆のものです。

従って、仮にぼくが死刑制度反対を唱えるならば、
「死刑制度反対!」と言いきるのではなく、
刑法の、死刑が規定されている各個の条文に対して
その無効性を弁論することになります。

また、「書きなぐソ陪審」の「死刑制度⑤」では

まず刑法199条には
「人を殺した者は、死刑、または無期、もしくは3年以上の懲役に処する」
と書いてある時点で
1+1=①か②か③
と書いてある(つまり曖昧な幅がある)と捉えるべきではないのでしょうか。
199条に限らず、ほとんどの刑罰に幅がありますよね。

という意見が出されていますが、この条文、
「刑の上限が無い」という特殊なものであることに注目すべきです。
現行刑法では死刑が究極ですから、そういう意味では、
死刑が上限であると言うこともできますが。

また、法に幅があるのは、「曖昧」なのではなく、
状況に応じて柔軟に対応するためです。
ここから曖昧さを排除してしまえば、それこそ、
「目には目を、歯には歯を」に対する「間違った解釈」の世界になります。

刑は罪と応報に、
しかし、どの程度が応報なのかは、良心に従って判断しよう。
複数の良心を汲み入れるために、裁判員制度を導入しよう。

というのが、現在までの流れだと考えています。

そして、最後に強力な突っ込みを!

「書きなぐソ陪審」の結論として、

「死刑」は「責任の取り方」の一つとして被害者側が指定できる選択肢の一つであるべきだ、という1点です。

というものが提示されていますけれども、これはまずい!!!
単に無法状態を明文化しただけのことであって、
この結論では、そもそも法の存在価値がなくなってしまいます。



以上、主に「書きなぐソ陪審」への反論という形式で書いたのですが、
「えせ記者徒然」へのそれにもなっているのではないかと思います。


ご意見をお待ちしております。

2006年3月12日 (日)

死刑制度について(2)

さらなる意見を述べます。



このエントリーは、
「えせ記者徒然」の、「死刑。その1~その4」(2006年3月4日~3月8日)と、
「書きなぐソ陪審」の、
「死刑制度の是非」① ~「死刑制度④」(2006年2月24日~3月7日)
のエントリーを受けてのものです。
また、ぼくの前回のエントリー「死刑制度について」の続きにもなっています。

まず、ぼくの立場を再び確認していただく必要があると思います。

ぼくは前回、「法に限界を与えないため」という理由で
死刑制度を存続させるべきだと述べました。

ここに言う「法」とは、システムの大枠的なことというか、
「具体的な個別事例に対する判決」のことではありません。
そのため、ぼくは具体的な事例には触れず、
「120罪」や「100刑」という表現を使いました。

つまりぼくは、死刑が必要であることを証明するために、
「○○罪であることがすでに確定している状態」
という、いわば机上の論理の結果をあえて設定した上、
「応報刑」という概念を用いて述べているに過ぎず、
「どのような罪をいくらの数値で表すのか」ということには触れていません。
「罪を数値化する」という、
現実的に不可能な方法を提示していることからもおわかりかと思います。

従って、「えせ記者徒然」や「書きなぐソ陪審」で述べられていることは、
すべて「法律(刑法)の運用」に関することであり、
抽象的に、「将来の、想像を絶する罪悪」を仮定する、
ぼくの立場とは根本的に異なります。
さらに、「死刑制度の存廃」という論点とは外れています。

以上のことを踏まえた上、反論を続けます。
3者ブログという性質上、
ほかの二人の意見に個別に反論するという形をとりますので
あらかじめご了承ください。

ぼくの論理の根底には「応報刑」という概念がありますが、
どのような罪をもってどのような刑罰が相当とみなすのかは、

日本国憲法 第76条
③すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、
 この憲法及び法律にのみ拘束される。

ということであり、あえて極論すれば、
裁判官の「鶴の一声」に委ねられているわけです。

具体的な判例を示せなくて申し訳ないのですが、
(明確な資料が見つかればすぐに書きます)
違憲審査の重要判例として、
「このような判決は憲法第76条に反する」という提訴に対し、
「裁判官の良心は不可侵であり、違憲とは言えない」
という判決が下されたこともあります。
(この判決には学界の反論が多かったことは注目すべきですが)

要するに、繰り返しになりますが、
無限の権限を持つ裁判官の良心を拘束できるのは憲法と法律だけであるわけで、
(もちろん、「判例」も含みますが)
そこで出てくるのが、罪刑法定主義であると、ぼくは考えます。

そして導かれるのが、ぼくの前回のエントリーにある、

まずもって根本的に、法律とは、
感情的な結果を導かないための歯止めであると考えています。
法律に関しては、感情的な面は極力排除されるべきだと考えます。

というものであります。
歯止めをかけられているのは、まさに裁判官です。

ぼくのこのエントリーに関して、「書きなぐソ陪審」の「死刑制度③」からは、

この文中の「法律」とは以後の文脈から刑法のような
「罰則規定のある法律」のことと捉えていいですね?

という確認がありますが、これは違います。
全ての法律において、です。
最終的な判決を下す過程において、
感情的な面というのは絶対に入ってきます。
何度でも書きますが、「裁判官の感情」です。

人間の一生の中で起こる全ての事象を明文化することなどできません。
だから、法(憲法、法律など)には曖昧な表現が多いです。
その曖昧な部分を明確にする根拠は、
つまるところ、
「裁判官の背負ってきた人生」と言っても過言ではないと思います。

あくまでも仮定の話ですが、殺人事件の裁判を行う場合、
「親族を殺害されたことのある裁判官」と、
そうでない裁判官の判断には雲泥の差があるだろうことは明らかです。
しかしその場合には、

刑事訴訟法 第20条
裁判官は、次に掲げる場合には、職務の執行から除斥される。
一、裁判官が被害者であるとき。
二、裁判官が被告人又は被害者の親族であるとき、
  又はあつたとき。
(以下略)

 (同)  第21条
①裁判官が職務の執行から排斥されるべきとき、
 又は不公平な裁判をする虞があるときは、
 検察官又は被告人は、これを忌避することができる。

という方法がとられます。
少なくとも刑法においては、
感情的な面は排除されるようになっていることは明らかです。

民法系の法律においても、
(具体的な条文を提示できなくて申し訳ないですが)
まず、第一次的には当事者間の話し合いを尊重した上で、
それで決裂すれば法で一刀両断しますよ、
という流れになっています。



ここいらで、いったん切ります。

続きは明日。
いえ、もう書き終えてはいるんですけれども、
一度に書くと読みにくいかと思いまして…

2006年2月28日 (火)

死刑制度について

ぼくは、
死刑制度はなくしてはならないものだと考えています。

と、またもや突飛な話から始めてしまいましたが、
これは、ブログ「書きなぐソ陪審」

「死刑制度の是非」①
死刑制度②

を受けての発言です。


さて、このような意志表明をするからには
当然、それなりの理由があってのことでありまして、
その理由を述べようと思います。


その最も大きな理由は、「法に限界を与えないため」です。
「書きなぐソ陪審」では、
被害者の立場からの復讐的な意味合いで死刑制度に賛同していますが、
結果的な意見はぼくと同じであれ、その理由は大きく異なります。

まずもって根本的に、法律とは、
感情的な結果を導かないための歯止めであると考えています。
法律に関しては、感情的な面は極力排除されるべきだと考えます。

では、なぜに死刑制度に賛同するのかと申しますと…
まず、被告にとって最善の判決とは何かを考えてください。

これは、「無罪判決」であることに異論を挟む余地はないはずです。

では、被告にとって最悪の判決とは…

ぼくは、これが「死刑判決」であると考えています。
他のどんな刑罰も、命を奪う刑罰よりも強力なものはありません。
反対派が「死刑制度」を標的にしていることも、
また、様々に意見が分かれていると思われることも、
「最悪の刑罰」として広く、一般的に認識されている証拠だと思います。
我が国の刑法でも、

第九条(以下略)

とされていることからも明らかです。

死刑・懲役・禁錮・罰金・拘留及び科料を主刑とし、
没収を付加刑とする。
第十条
①主刑の軽重は、前条に規定する順序による。ただし、


さて、ぼくは死刑制度賛成派ですが、
もちろん、
なにも積極的に人殺しをしろと言っているのではありません。
死刑制度は、理論的に必要であるということです。

罪、つまり犯罪は、実に種々様々です。
刑罰はそれに対して、限界なく対応している必要があります。


たとえば、便宜的に、「無罪判決」を「0刑(ゼロけい)」、
「死刑判決」を「100刑(最大)」の刑罰であると考えてください。
対して、「罪の重さ」も便宜的に「○○罪」と数値で表すこととします。

すると、死刑制度が廃止された状態は、
刑罰は「99刑」までしかないことになります。

現代の多くの国では、「罪刑法定主義」が採用されています。
ある罪に対する刑罰は、
あらかじめ法律で決めておこう、というものです。
上記の設定で言うと、
「30罪には30刑を与えるに留めよう」ということです。

余計にわかりにくいですか。すみません。
つまり、
「パンを万引きして死刑にするのは無茶だ」ということ。

もちろん、
同種の罪でも状況によって重さはいろいろですから、
我が国の刑法では、例えば、

第一五〇条
行使の目的で、偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を収得した者は、
三年以下の懲役に処する


という表現がなされています。
つまり、「刑罰の最大限を規定」しています。


ところで、「罪刑法定主義」の始まりは、ハンムラビ法典の、
「目には目を、歯には歯を」であると言われています。

「書きなぐソ陪審」の死刑制度②では、
ハンムラビ法典に関してぼくの解説を求めておりますが、
これに関して、ぼくは詳しいわけではありません。
本当ならきちんと資料を当たってから書くべきなんですが、
とりあえず、今知っていることを述べるに留めます。
おそらく、いろんなサイトで説明はあると思われます。

と言っても対したことではないのですが、
このハンムラビ法典の法文がつくられた背景としては、
「目を潰されたから相手を殺す」
「歯を折られたから相手を殺す」というような、
混沌とした社会の現状があったという風に理解しています。
そのような行為に歯止めをかけるため、
「目を潰された仕返しは、相手の目を潰すところまで」
「歯を折られた仕返しは、相手の歯を折るところまで」
という、「復讐の最大限」を規定したものです。

応急処置として、「応報」に留めるのが精一杯だった、
という説も聞いたような気がするのですが、
いずれにしても、
積極的に復讐を奨励するものでは決してありません。


さて、さきほどの罪刑数値化の例に戻ります。
上でも述べましたが、罪は様々です。
つまり、たとえば「120罪」なんてのも起こり得ます。
死刑の効力は究極(100刑~∞刑)、
つまり「100罪」を超えると死刑が適用されるのですが、
刑罰が「99刑」までしかないと、
それを超える罪はどうなるんだという話になります。

また、
その場合は、「死刑の次に重い刑罰」が科されるはずですが、
じゃあ、それはいったい何なのだという疑問が生まれます。
死刑制度反対派は、この疑問を黙殺しています。


ここで、「死刑制度の是非」①の引用文をさらに引用して反論する形をとります。

1. 死刑は戦争と同様、国家が合法的に犯す殺人であり、人道上許されない
2. 死刑には存置論者が言うような威嚇作用はない
3. 矯正を目的とする近代刑事政策に死刑はなじまない
4. 誤審の場合死刑確定囚を救済できない


1.に対しては単純に、
「罪を犯さなければ絶対に死刑にはなりません」と言えます。
性善説の思想ではこのような結論になるかもしれませんが、
最悪の場合を想定できていないと言わざるをえません。
また、国家は死刑を執行することで社会の安寧を保っています。

2.に対して、
ぼくは死刑制度の威嚇作用は問題としていません。
また現実に、なにも死刑に限らず、
罪を犯す者が、
その罪の遂行時にその後の刑罰に思いを巡らせることがあるでしょうか。

3.に対するMolly(「書きなぐソ陪審」の筆者)の意見、

しかしその「矯正」の思想こそもっと危険ではないだろうか。

には、ぼくも同感です。
こういった視点はぼくにはありませんでした。
ぼくなりの意見としては、冒頭にも書きましたとおり、
馴染むか馴染まないかではなく、「法に限界を与えないため」です。

4.は、反対派が最も援用するものと思われますが、
Mollyも述べているように、誤審の防止は司法機関の管轄です。
「死刑が確定する」のは、「相当の理由がある」からであって、
死刑制度の存在自体に問題があるわけではありません。

また、我が国の刑事訴訟法では、
判決が確定するまでには何重もの救済措置が設けられており、
最終的に刑が確定すれば救済できないというのは、
どの刑罰でも同じことです。
また、最終判決を覆すことは、
法治国家を根本から否定することではないでしょうか。

死刑制度に関する私見は、以上のとおりです。


なお、「書きなぐソ陪審」の死刑制度②にある「喫煙者vs.禁煙者」の続きの件ですが、
とりあえずMollyからの、禁煙者擁護の発言を待つことにします。


以上です。


2006年2月22日 (水)

煙草について(4)

(前回からの続きです)


◎煙草は大人の、とっておきのもの

さて、
そろそろ話をまとめないと、えらいことになりそうですな。

よし、まとめるぞ。




むやみに吸うな、ガキは吸うな。
以上




いや、嘘です。
とはいえ、真っ赤な嘘ではござんせん。
これは、
喫煙者であるぼくが推奨する分煙運動を端的に表したものです。

愛煙家は、
煙草は大人の、とっておきのものであると考えて自制しようよっと。

嫌煙家は、
「嫌いだから~」などという幼稚なことは言わないようにしようよっと。

事実、喫煙を本当の趣味としている人たちは、かえって、
人前でむやみに吸ったりはしないのではないでしょうか。
論理を軽く跳躍させれば、
喫煙には教育が必要である、ということになります。

なにも、義務教育に導入しろと言ってるわけではありません。
現代的に言うなら、
喫煙を免許制にすることであると思います。

喫煙マナー、当然にポイ捨て禁止教育も行います。
ポイ捨てする人には免許の提示を求め、免停、免取を行う。

もちろん、
はなっから制度が形骸化することは目に見えていますが、
少なくとも、若年者の喫煙を注意しやすくなると思います。
また、一般の喫煙者の自制心も強く働くようになると思います。


◎まとめになってないまとめ

嫌煙家に対する愛煙家の反発心は、
「嫌だから強制的にやめさせよう」という、
嫌煙家の態度に、その原因を収束できると考えます。
もちろん、唯一の原因ではありませんけどね。

本来、法とは、
社会的な道徳心を具体化するという起源を持ちますが、
(このへんは法哲学的な話題であり、
 ぼくはそれに疎いので追究はできかねますが)
このような嫌煙家の態度はそれを逆手にとり、
「一般慣習とは言いきれないのに強制措置をとる」ものです。
法律相談のテレビ番組が流行ってますが、
これも、「四の五の言わせず快刀乱麻」的な判断が、
すっきりして気持ちいいからであると思われます。

あらゆる社会現象の根源は、複雑に絡み合っています。
嫌煙ブームも、しかり。
(法律相談が社会現象であるとまで言っているのではありません)

ただ、両者(愛煙家、嫌煙家)のモラルの低さが、
問題をさらに複雑にしていると考えます。
まあ、モラルを持ち出すと微妙な判断になるから、
結局、解決はしないんですけどね。

煙草が毒物である以上、どうしても、
嫌煙家の言い分の方が正当化されがちですが、
もうちょっとゆっくりと話し合いましょうよと、
喫煙者のぼくは言いたいです。


ええ、紫煙をくゆらせながらね!


結論が出ないので、
これくらい不謹慎にならないとやってられません。
まあ、結論を出そうとしてるわけではないんですが、
形だけでも結論付けないと終われないよぉ…


誰か助けて。


それから、居酒屋での喫煙の話はいったいどうなったんだと、
自分でも思います。
これも、
誰か助けて。


いや、いろんな人の意見を聞こうという言い訳寛容さの表れの…

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