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2006年2月22日 (水)

煙草について(4)

(前回からの続きです)


◎煙草は大人の、とっておきのもの

さて、
そろそろ話をまとめないと、えらいことになりそうですな。

よし、まとめるぞ。




むやみに吸うな、ガキは吸うな。
以上




いや、嘘です。
とはいえ、真っ赤な嘘ではござんせん。
これは、
喫煙者であるぼくが推奨する分煙運動を端的に表したものです。

愛煙家は、
煙草は大人の、とっておきのものであると考えて自制しようよっと。

嫌煙家は、
「嫌いだから~」などという幼稚なことは言わないようにしようよっと。

事実、喫煙を本当の趣味としている人たちは、かえって、
人前でむやみに吸ったりはしないのではないでしょうか。
論理を軽く跳躍させれば、
喫煙には教育が必要である、ということになります。

なにも、義務教育に導入しろと言ってるわけではありません。
現代的に言うなら、
喫煙を免許制にすることであると思います。

喫煙マナー、当然にポイ捨て禁止教育も行います。
ポイ捨てする人には免許の提示を求め、免停、免取を行う。

もちろん、
はなっから制度が形骸化することは目に見えていますが、
少なくとも、若年者の喫煙を注意しやすくなると思います。
また、一般の喫煙者の自制心も強く働くようになると思います。


◎まとめになってないまとめ

嫌煙家に対する愛煙家の反発心は、
「嫌だから強制的にやめさせよう」という、
嫌煙家の態度に、その原因を収束できると考えます。
もちろん、唯一の原因ではありませんけどね。

本来、法とは、
社会的な道徳心を具体化するという起源を持ちますが、
(このへんは法哲学的な話題であり、
 ぼくはそれに疎いので追究はできかねますが)
このような嫌煙家の態度はそれを逆手にとり、
「一般慣習とは言いきれないのに強制措置をとる」ものです。
法律相談のテレビ番組が流行ってますが、
これも、「四の五の言わせず快刀乱麻」的な判断が、
すっきりして気持ちいいからであると思われます。

あらゆる社会現象の根源は、複雑に絡み合っています。
嫌煙ブームも、しかり。
(法律相談が社会現象であるとまで言っているのではありません)

ただ、両者(愛煙家、嫌煙家)のモラルの低さが、
問題をさらに複雑にしていると考えます。
まあ、モラルを持ち出すと微妙な判断になるから、
結局、解決はしないんですけどね。

煙草が毒物である以上、どうしても、
嫌煙家の言い分の方が正当化されがちですが、
もうちょっとゆっくりと話し合いましょうよと、
喫煙者のぼくは言いたいです。


ええ、紫煙をくゆらせながらね!


結論が出ないので、
これくらい不謹慎にならないとやってられません。
まあ、結論を出そうとしてるわけではないんですが、
形だけでも結論付けないと終われないよぉ…


誰か助けて。


それから、居酒屋での喫煙の話はいったいどうなったんだと、
自分でも思います。
これも、
誰か助けて。


いや、いろんな人の意見を聞こうという言い訳寛容さの表れの…

煙草について(3)

(さらに続きです)


◎一転して、俗なお話を

まあ、非喫煙者にとって、
「煙草の煙は実際にうっとうしい」ということも当然理解できます。

で、分煙の話に戻るわけなのですが。

煙草とは本来、
「日常」から隔離されるべきものであると考えます。
それは前回に書いた理由によるものなのですが、
現代の分煙について考える際には、
そんな考え方は意味をなしません。
単純に、けむいものをどう隔離するかという点で述べます。
また、煙草を純粋に嗜好品ととらえた見方をしてみます。

前回も書きましたが、煙草は毒薬です。
そして、煙は分散しますから、やはり解決策は、
「嫌いな人の近くで吸わないこと」ですね。

はっきし言って、もう、これしかありません。
喫煙者が嫌煙ブームを嫌悪するのは、
言い方が悪いのが主な理由だと。
嫌いだからやめろ、というのは理由になりませんし、
他人の嗜好に口出しするなんて論外です。

しかし、喫煙者のモラルの低さが
嫌煙家に根拠を与えていることも見過ごせません。
所かまわず煙草を吸う、吸殻をポイ捨てする、
危険な歩き煙草をする、などという現実に対しては、
喫煙者のぼくも憤慨するところであります。

投げ捨てられた吸殻さえなければ、
嫌煙ブームがここまで肥大化することはなかったと思います。
ここは、喫煙者の自制力に問題があります。

喫煙は今や、
個人的に快感を得るマスターベーションであると考えます。
禁忌のもうひとつの側面ですね。
そう、投げ捨てられた吸殻は、すなわち、ティッシュです。
人前での喫煙は、衆人環視の自慰行為です。
最近は、歩き煙草をする若い女性が増えましたが、
彼女たちは全員オナニーをしながら歩いているのです。
全員です、全員。
だからもっともっと吸ってください。
なんならほんとにすっきりパンツを脱いでオナニーしながら…









いや、失敬。
俗に流れすぎました。

まあ要するに、喫煙者も遠慮しろよってことですかね。
公共広告機構のCMでもありますが、
ぼくは、嫌だけどまあいいよって言うのをわかっていながら
「吸ってもいい?」なんて聞くような野暮なことはしません。

初っ端にも書きましたが、ぼくは喫煙者です。
しかし、喫煙権なるものを主張する気はありまっせん。


◎喫煙はかっこいい?

さて、煙草を吸い始める理由として、嫌煙家からは
「かっこいいから」というのが必ず挙げられます。
その論理で、テレビなどの喫煙シーンが問題視されるのですが、
ぼくは、喫煙がかっこいいなどと思ったことは一度もありません。
これは、昔も今も同様です。

「えせ記者徒然」(の、当該エントリー↓)
http://showkei.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_e02e.html

にもあるように、テレビなどの影響は皆無ではありませんが、
身近な人が「うまそうに」吸っているのを見る、
というのがもっとも大きな理由だと思います。


「年老いた学者が本を読みながら吸う」
「大工さんが角材に腰掛けて吸う」
「おじいさんが縁側で吸う」


これらはみんな、「うまそうである」のです。
まあ、「うまそう」と「かっこいい」を区別するのは
それこそ詭弁といえますが、
注意してみると、ほとんどの情景は、

p 「道を極めた人が煙草を吸う様子」

であると言える、と思います。
もっと広く言えば、「大人が~」となるのですが、
これは、若年者が吸い始める理由とも重なります。
ぼく自身にとっても、それは同様でした。

また、他のイメージとして、こういうのもありますね。


「大工さんが、耳に挟んでいた煙草を大事そうに吸う」
「死刑囚の最後の望みは、一本の煙草である」
「戦場で死に瀕した人の最後の望みは、一本の煙草である」


下の二つに関しては、前回の「境界」の話にからめて、
民俗学的な観点から考察することができるかもしれません。
上記の「道を極めた人が~」というのも、
ある種の「境界」を暗示していると言えなくもありません。

まあそれはさておき、後者のイメージは、
「とっておきのもの」という風にまとめることができます。


もう一回だけ続けるので、三度切ります。

煙草について(2)

(前回の続きです)


◎喫煙者・非喫煙者の心理と分煙策

たとえば、居酒屋や喫茶店に行った時を思い出してください。
隣のテーブルの人が、煙草を取り出して火をつけるまでの間に、
ちらっとこちらのテーブルに目をやることがあるのにお気づきでしょうか。

非喫煙者の方はなかなか気付きにくいかもしれませんが、
これは、隣のテーブルに灰皿や煙草があるかを確認しているのです。
つまり、隣は喫煙者かどうかを。

煙草を吸ってもいい場所といけない場所があることは周知の通りです。
そして、いい場所でも「いけない場合」があることも同様です。
その場合は喫煙者が我慢することになるのですが、
上記の例(居酒屋など)では、それでも吸ってしまうことが多いです。
結果、「喫煙者は遠慮」「非喫煙者は我慢」をすることになります。
そんな状況を打開するために生まれたのが、「分煙」だと思います。
いい場所、いけない場所をはっきりと線引きしましょうよっと。

うん、とっても合理的な方法ですね!


◎分煙の境界、神と人との境界、
 そして、煙草撲滅運動が壊そうとしているもの

話はそう簡単ではありません…
境界をどこにするかが問題となるのですね…

この「境界」に関連して、少し本題を外れるやもしれぬ話を。

前節の話の流れを非喫煙者の立場で結論付ければ、
「じゃあ最初から煙草なんて吸うな!」と、なるわけですが、
煙草は、本当に撲滅せらるべき存在なのでしょうか。


煙草の歴史は、上記、

「書きなぐソ陪審」(当該エントリー↓)
http://blog.livedoor.jp/muddymolly/archives/50072196.html

でも、医薬品としての歴史が紹介されていますが、

「たばこと塩の博物館」

↑ここにはもっと詳しい説明がなされています。
コロンブスが「発見」する以前の、宗教的な使われ方です。

古代には、地域・文化を問わず、
災害、不吉なことは神の領域であると考えられていました。
そこには当然、「病」も含まれます。
病気治療は呪術師の仕事であったことからもうかがえます。

煙草には、酩酊作用があります。
熱心な祈祷でトランス状態を作り、自己暗示をかけ、神と交流する。
煙草の酩酊作用は、この行為を補佐します。

もちろん酒にも酩酊作用があり、
日本でも「御神酒」というものがあります。
これは、同様の理由によるものと考えられます。

(余談ですが、イスラームにおいては、
 「この酩酊作用が神を忘れさせる」という理由により、
 酒類は禁じられています)

また、煙草は「火」です。
自然界に存在する「火」は、火山をはじめ、
落雷、または風による摩擦から起こる山火事などであり、
人間の能力を超えた存在です。
オリンピックの「聖火」も、
火の神秘性に基づいていると考えられます。

そして、闇を照らす「太陽の分身」でもあります。

さらに、煙。
古来より、神は天上にいると考えられていました。
だから、立ち上る煙は、
人間と神との架け橋であると考えられました。

また、どこの話だったかは失念してしまいましたが、
人間の魂の象徴は吐息であると考え、魂を形にするという点で、
煙草の煙を宗教行事に使う地域があると聞きます。
マンガなどでよく、口から魂が抜ける表現がありますが、
まったくそのまんまですね。

このように、
「受け継がれた深遠な文化としての煙草」までも、
嫌煙家はなくそうとするのでしょうか。

まあまあ、
現代の嫌煙ブームにそこまでの配慮を求めるつもりもありませんが、
せめて、ちょっとはしょって
「文化としての煙草」という認識は持って欲しいと思います。
また、上記「たばこと塩の博物館」でも紹介されている、
煙草と共に花開いた文化を否定することでもあります。

なお、JTを「毒薬の売人」とこき下ろす意見もありますが、
JTは、毒薬の売人です。
煙草が毒薬であるからこそ、
現代に受け継がれてるんですからね。

同様の論者は煙草を、麻薬と同列にみなしますが、
酩酊作用の強弱を考えれば、そんなものは詭弁です。
それならむしろ、酒をどうにかしなきゃなんない。


現代の中東では、ひとつの煙草に関する儀礼として、
こういうものがあります。

1.まず、相手に勧めてから吸う。
2.火をつけてもらうときは、
  相手の手を両手で包みこむ。
3.火がついたら、
  指先でトントンと軽く相手の手をたたく。

「1.」の段階で、
嫌煙家からはマッハパンチが飛んできそうですが、
これは重要な社交辞令です。
つまり、人と人との境界に関する儀礼です。


「境界」については、以前の「男女不平等論」に関連して、
女人禁制の話をからめて、後日書きたいと思います。
この「境界」という概念は、
ぼくが強く興味を持っているもののひとつです。
そこでは当然、これから我々3人が述べるであろう、
「冠婚葬祭」における境界の話もからんできます。


さらに続くので、もう一回切ります。

煙草について(1)

友人たちのブログでは、
「喫煙者vs.禁煙者」というテーマで話が進められていたわけなのですが、

※↓
「えせ記者徒然」

「書きなぐソ陪審」

どうやら違う話題に移行しそうなもんで、滑り込みでぼくもコメントを。
物事を真実の目で見る、ってのがこのブログの趣旨なんですが、
ぼくは、喫煙者であり、ここではあえて、
「喫煙者であるぼく」の主観的な意見を述べます。
嫌煙家の方も、喫煙者の心理を知る参考にしていただければ幸いです。

でわでわ、始まり始まり~


◎ぼくが煙草を吸ったわけ

上にも書きましたが、ぼくは喫煙者です。
でも、新しく出会う人たちは、ある程度親しくなるまで、
ぼくが喫煙者であることに気付かないことが多いです。

なぜだと思います?

答えは単純明快、
あまり親しくない人や目上の人の前では
基本的に煙草を吸わないからです。

なぜだと思います?

これも答えは単純明快。
喫煙は、アウトローな行為だと考えているからです。
(成年者の喫煙は合法行為ですが、便宜的な表現として。以下も同様です)

煙草を吸わない方、試しに1度喫煙者に聞いてみてください。
「親の前で煙草を吸いますか?」って。
絶対吸わないって人が意外に多いことがわかるはずです。
もちろん、ぼくもそうです。
遠慮がちに吸うって人を合わせれば、
喫煙者のかなりの割合にのぼるはずです。

ぼく自身、副流煙が迷惑だからという理由以前に、
喫煙という行為がアウトローであると考えています。
何かの本で読んだアラブ研究者のエジプト留学時代の体験談として、
こんなのがありました。ぼくの記憶を頼りに紹介します。


私は親しくなったエジプト人の友人の家に行き、
いつものように、居間で、二人で煙草を吸いながら雑談していた。
すると突然、彼の父親がドアを開けて顔を出した。
その瞬間、友人は、
煙草をはさんでいた2本の指だけをわずかに広げて煙草を床に落とし、
革靴で踏んづけて隠したのである。
父親は、二言三言友人に言葉をかけるとすぐに去っていった。
そして友人は、おもむろに煙草を拾って再び火をつけた。


友人が喫煙習慣があることは、父親も知っているということだったのだけれど。
…という説明もありました。

このエピソードの意味は、言うまでもありませんね。

ぼくが最初に煙草を吸ったわけは、つまり、
これと反対のことをしたかったからだと思います。

いえいえ、親の前で吸うってことじゃありませんよ!
正直に言って、最初に吸った時は高校生でしたが、
わざわざ人通りの少ない遠くの自販機まで自転車をこいで行って買って来て、
自宅でひっそりと吸いました。
味? そんなもんは覚えておりません。
最初からうまく吸えた(肺に入れることができたってやつ)ことは覚えてますかね。

外で制服着たまま吸うなんてことは絶対にしませんでしたし、
ちょっとワルイ奴らが学校で喫煙経験を自慢してるのを尻目に、
ぼくは一言も口外しませんでした。
「やってはいけないことをする」というドキドキ感と好奇心を満たしたかったわけです。

喫煙者数を減らすために、たとえば深夜は販売禁止にするとか、
身分証の提示を求めるとか、広告を減らすとか、
「まず、最初から触れさせない」という方策がとられますが、
ぼくのように心理的欲求を満たそうとする者に対しては無意味です。

また、煙草を吸い始める理由は、それこそ人それぞれです。
絶対に効果的な方法なんて、それこそ絶対にありません。
それでも、対症療法はあります。

「分煙」です。

でも、ここでいう「分煙」は、
世間で一般的に言われるものとはちょっと違うんですよね…


長くなりそうなので、いったん切ります。

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